命の意味

エッセイ

会社の同僚の突然死で思い出した。
4年くらい前だったろうか、いとこが死んだ。肺がんだった。
子供の頃からよく一緒に遊んでいた仲で、「がんで入院した」と聞いた時は驚いた。
そいつは昔から結構なヘビースモーカーだったので肺がんだと言われれば十分ありうるなと納得ではあった。
すでにステージ4あたりで、もう末期がんのレベルだった。今考えてみれば一度お見舞いに行き、一緒にロビーで缶コーヒーを飲んで少し話をしたのがそいつとの最後の会話になった。
奥さんと二人の子供を残しての他界。
いとこの死は長年の喫煙習慣による「がん」が原因で、それは自業自得とも言える。彼が末期の肺がんだと聞いた時、それは残されていく人たちに対しあまりにも無責任だろうと腹が立った。タバコなんて百害あって一利なし、一家の主(あるじ)なら発がんリスクの高いタバコなんてやめて当然のはずだ。なんでこうなる前にやめなかったのかというイラ立ちだった。

その告別式。予想はしていたがそいつのお母さんの悲しみようはすさまじかった。
よくあるお約束の「最後のお別れ」とかいう儀式、棺にみんなで花を入れてく時などはもう絶叫だった。そりゃそうなるだろう。親にしてみれば、わが子はいくつになっても自分の「子供」なのだ。子供が自分より先に死ぬ、なんてあってはならないことなのだ。おれが同じ立場だったらおそらく同じような状態になるかもしれない。普段は「死は魂の終わりではない」だの「人は何度も転生するのだ」など分かったようなこと言ってるが、いざその時になったら取り乱し慟哭するのは間違いない。おそらくその場に崩れ落ち、立つことすらできなくなるんじゃないだろうか。

遺体を焼いて骨壺に残った骨のかけらを入れる儀式のときもその母は参加を拒否した。全く現実を受け入れたくなかったのだろう。遺骨を見たら本当に終わってしまうのだから。
子が親より先に死ぬとはこういうことなんだと、まざまざと見せつけられた思いだった。
身近な人が突然死んでしまった、というケースは、国内だけでなく全世界にありふれた事象なんだろう。いじめや暴行で殺されてしまった、自殺に追いやられた、ブラック企業で過労死した、などその親にしてみれば許しようのない怒りしかないだろう。そんな死に方をされたら慟哭どころでは済まない。

人(に限らないが)は歳を取った順に逝くのではない。定められた命の終わりが来た時にまるでタイマーがセットされていたかのように「死」が発動する。おれのようにのほほんと生きてる奴にとってはなぜか「自分は死なない」「自分には関係ない」「すっごく遠い先の話」ぐらいに考えているであろうが、新型コロナ同様いつ自分が直面してもおかしくないのだ。
自分のタイマーがいつ発動されるのか分からないが、やるべきことをやっていて発動したならまさにそれは己の宿命だとあきらめるしかない。しかしそれでもやっぱり「自分は死なない」と根拠もないくせにまるでこの世の真理のように信じ込んでいる自分がいる。

天国への階段(レッド・ツェッペリンではない)

眠れぬ夜に「死」を考えるとさらに眠れなくなるのだ

絆(きずな)

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