絆(きずな) ※ちょっと長いのでPC閲覧推奨

エッセイ

私の姉は27歳の時に結婚した。相手は36歳の岩手県出身の起業家だった。
魚介類の輸入を手がけていたのだと思うが、自信に溢れた人だった。
姉は短大卒業後、教授の勧めでその大学に残り、管理栄養士となりしばらく大学で働いていたが、83年に開催された「つくば科学万博」のコンパニオンに選出され、つくばにしばらく住んでいた。万博が終わると同時に結婚して横浜に移り住み、横浜の観光バス会社で何の経験もないくせにバスガイドをやっていた。
それからしばらくして子供が生まれた。

子供が生まれて3ヶ月が過ぎたころ、夫が突然倒れた。出張で香港から帰ってきて、車を車検に出しに行った帰りに突然吐いたと言う。そういえば「香港でえらい風邪ひいてね。あんなの久しぶりだったよ」と香港から帰って来た時に言っていたから、最初は単なる体調不良だと本人も周りも思ったことだろう。ところが事は深刻だった。
脳腫瘍が発見されたのだ。私の叔父が脳神経外科のクリニックをやっていたので、そのつてで聖路加病院に入院し、手術をすることになった。
かなり難しい手術で、例え成功してもそのまま完治というわけではなく、長くてもあと数年、というような話だったと思う。

手術は長時間に及んだ。手術が終わりこん睡状態の夫はそままICUに運ばれた。翌朝、目を覚ました夫は姉の手を弱々しく握り「痛い・・・」と小さく言った。姉は「手術終わったよ。喋らなくていいよ」と目に涙をためながら答えた。

翌日、「危ない」という連絡があった。
仕事を早退してすぐに病院に駆けつけると、すでに岩手の実家の家族が勢ぞろいしていた。
まだ死んでいるわけではないが、ベッドで寝かされている意識不明状態の夫を見ればそれが意味するものは誰の目にも明らかだった。

そして数時間後、夫は亡くなった。夫のお母さんは号泣していた。家族一同泣いていた。そこで私が見たものは、呼吸の止まった夫と泣きじゃくる母親をベッドの横から見つめ、じっとこらえている姉の姿だった。姉はひとことも発せず、無言のまま涙を抑え込んだ。
結婚して1年も経ってない。子供も生まれてまだ3ヶ月だ。私の中の気持ちは、その夫が死んだことよりも、この残された姉と子供はどうなるんだという悲しみだった。

検査で脳腫瘍発覚からこの間(かん)たったの二週間。逆に言えば二週間前はまだ立って普通に歩き、普通に会話をしていたのだ。手術直前だって会話は普通にしていたんだ。どうしても「手術なんかしなければもう少し生きていたかもしれない」という思いはぬぐえない。

その数日後に葬儀が行われた。その間、私は姉の泣く姿を一度も見なかった。悲しみの度合いで言えば夫の母親に負けてはいなかったろうが、とにかく泣いている姿を見せなかった。後日談として私の母から聞いた話しでは、台所などで誰もいないときにひっそりと泣いていたのだという。いずれにしても人前では毅然としていた。
しかしやがて火葬され、亡骸が骨となって出てきた時、ついに姉は子供を強く抱きしめそのまま失神した。
それは私にとっていまだに忘れられない衝撃的な光景だった。
姉は後追いするんじゃないかと私は感じていた。姉の性格からいってやりかねない。それだけは絶対に阻止しなければならない。この頃、私は用もないのに頻繁に姉の家に泊まりに行った。

姉はシングルマザーになった。
夫は自分で会社をやっていたのでその残務整理もあったのだろう。不幸中の幸いは一人でやっていたので従業員がいなかったことか。しかし取引先との精算や売掛金の未回収など、普通に考えれば多大な労力を必要としたことだろう。まして夫を失ったというショックとそれでも育てていかなければならない幼子を抱えての状況だ。その苦労たるや、私の想像を超えている。このあたりのことは何も聞いていないので、実際にそこでどんな苦労があったのか私は知らない。

数ヵ月後だったか一年後だったか、姉は実家の近くに越してきた。
そして地元の新しく出来た特別養護老人ホームに栄養士として勤務することになった。
ところがこの老人ホーム、雇用条件も勤務体系も無茶苦茶で、栄養士なのに配膳からその他諸々の業務をタイムシフト無視で酷使されてきた。職員の中では長時間労働と睡眠不足の挙句、交通事故を起こしてしまった人もいたそうだ。
 数年後、姉はすい臓を壊し入院した。
その後、さすがにこの老人ホームは辞め、今は管理栄養士としてとある省庁で働いている。

長女としての責任感からか、姉はいつも何かをガマンしながら生きてきたように思う。
それは「自由」であったり「希望」であったり「夢」であったのかもしれないが、いつも自分を犠牲にして生きてきたように感じるのは私の気のせいではないと思う。
再婚のチャンスも何度かあったようだが、子供の気持ちを第一優先として結局全て蹴ってしまったらしい。

しかし自分も親になって少し分かってきたが、子供を育てるというのはすごく大変なことだ。ましてシングルマザーともなると、その大変さは精神的、経済的にも数倍にもなるだろう。誰も頼れない中、子供を預けて働きに出る。時にはヘロヘロに疲れてしまった日や風邪で熱のある日もあるだろう。仕事上のトラブルもあるだろう。そういう諸々のストレスなどお構い無しに子供はお腹が空けば泣くし、夜眠たくなければいつまでも起きている。家の中は散らかし放題だ。掃除も洗濯も誰も代わってはくれない。夜中に高熱を出せば、例え翌日の仕事が早かろうが、夜中に救急病院に連れて行かなければならない。
国はもっとシングルマザーをバックアップすべきではないだろうか。託児所、保育園などへの優先入所と費用無料、所得税や住民税も免除、教育費免除。さらにシングルマザー手当てを出してもいい。あるいは子供手当て2倍とか。シングルマザーを採用した会社は、就業時間を配慮する代わりに国は減税対象とする。
私の姉のように死別でシングルマザーになる場合も少なくないだろうが、もっと悲惨な状況でシングルマザーになった人も少なくないはずだ。
いずれにせよ女性が女手ひとつで子供を育てるというのは並大抵のことではない。
そういうがんばってる人たちを国がもっとバックアップしたら、この国も少しは世界に誇れる国になるんじゃないか。スーパーコンピューターでNo.1にならなくても、シングルマザーのサポートNo.1になってほしい。バリアフリー世界一になってほしい。環境保護世界一、生き物に優しい国世界一になって欲しい。

話しは戻るが姉の一人娘も今は23歳になり、12月1日から一人でドイツにたつ。
大学までほとんどツキだけで卒業し、この就職難に地元のサンドイッチの製造販売会社にすんなり合格した。そこで約1年半働いたが、ここの環境も相当ひどかったらしい。
長時間労働と睡眠不足、人間関係のストレスなどでうつ寸前だったがようやくなんとか脱出し、ドイツにいる姉の知り合いのレストランで働くことになった。父親がいない分、よけい過保護に育った一人娘は、意外にも自立を目指してドイツへ一人で行くという。一応受け皿はあるものの、本人にとっては大冒険だろう。

ドイツにたつ3日前、私は姪を会社の近くに呼び出した。わずかではあったが軍資金を渡したかったのだ。
私にとってはまだ小学生の印象しかなかった姪だったが、改めて対面するとそこには確かに少し成長した私の知らない姪がいた。話し方も意外にしっかりしている。
考えてみれば、この姪とこんなふうに一対一で話すことなんて初めてかもしれない。
しかも23歳ともなれば、普通に大人の会話ができる。

姪は不思議なことを言った。
「お父さんのことは全然覚えてないんだけど、前に夢を見たの。あたしが川でおぼれていて、お母さんが助けようと手を差し延べてくれるんだけど、どうしても届かないの。そしたらすっとお父さんの手が出てきて私を助けあげてくれたの。顔は見えなかったんだけど、助けてくれた手は間違いなくお父さんの手だって分かったの。起きたらあたし、涙がどばーっとでていたんだ、あはは」
他にもあった。
「子供の頃、迷子になったことがあるんだけど、不思議と導かれるように歩いていったらお母さん見つけたの。でも、そのとき確かにお父さんに誘導されてるって感じたの」

自分が父親となった今、もし今自分が死んだとしたら、おそらく私は地縛霊となってでも、あるいは浮遊霊でもいいからこの世にしがみつきたいと思うだろう。幼子を残して自分がこの世から消えるなんて考えられない。人はいつかは死ぬのだろうが、そんなのはなんの慰めにもならない。姉の夫の無念さを想像すると戦慄が走る。

姪の言った「お父さんが助けてくれたの」というのは真実だったと思う。
あと何十年先か分からないが、姉が死んだとき、同じように姉に手を差し延べてあげてほしい。それは妻と子を残し、先に逝ってしまった夫の責任であり義務である。

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