「イヤな奴」というのはいつの時代も必ず一人や二人、どこにでもいるものだ。
それはクラスメイトであったり先輩であったり担任であったり同僚や上司であったり客であったりと、思い起こせばそれは小学校時代から今の今まで、姿かたちを変えながらもずっと傍らに居続けている。
そしておそらくこれは全人類共通の現象ではないかと推測する。
初めて社会人になった時、その会社はアットホームで「社員はみな家族」的な素晴らしい会社だった。
しかしたまたま自分の部署の直属の上司がいわゆるパワハラ野郎だった。そいつは虫の居所が悪かったり自分の意にそぐわないとすぐにヒステリックにわめいていた。恫喝するように怒鳴るのは日常茶飯事。性格的にはかなり問題のある人で、以前から社内でも少し浮いていたらしい。
あとで分かったのだが、当時その部署に配属されたおれを含め3名はそいつにとっての初めての部下で、そいつも初めて「主任」に任命されたらしい。もともと性格の少しおかしい人間が初めて部下を持ったのだ。
新社会人となったおれは初めて上司のパワハラというものの洗礼を受け、かなり戸惑ったのを覚えている。理不尽な暴言に対し、おれもまだ社会人一年生の子供だったから素直に単純に反発し、時には激しい口論になったこともある。
同期入社で同じ部署に配属された猪狩くんとよく帰りに喫茶店で散々こいつの悪口を言って憂さを晴らしていた。
まだ今ほど世の中が転職に寛容な時代ではなかったが「3年間は我慢しよう。しかしその前に胃潰瘍になったらすぐに会社を辞めよう」と考えていたのを覚えている。
今思えば、そいつも初めて部下を持って張り切っていたのだろう。しかし「部下」がなかなか自分の思い通りにならず、常にイライラしていたのかも知れない。そういえばそいつがこっそりと上司必読の定番著書『人を動かす』(デール・カーネギー著)を読んでるのを見かけたことがある。本人なりにけなげな努力をしていたのだろうが、当時は「けっ!お前の思い通りになんかなってたまるか!」とおれはひねくれていた。
この会社には結局7年くらいいたのだが、それはパワハラ上司に対し一緒になって抵抗してくれる戦友がいたから頑張れた面も大きい。
この会社にいるときに、ずいぶん悔しい思いもしてきたが、ある時「そんなふうに考えるのは損だ」ということにふと気づいた。
自分が夜も眠れぬほど腹を立てていても、パワハラ上司はきっと今頃平和に眠っているのだろう。
奴のせいで自分の胃に穴が開いても奴の胃は全く痛まない。そもそもあいつは己の吐いた暴言でどれほどこっちのメンタルが傷ついているのかなんて知る由もないし、そもそも言ったこと自体忘れている可能性が大だ。
そう考えると、こいつに対して反応すること自体バカバカしいことなんだ、という結論になる。
イヤな奴のことを考えてムカムカして体に大量の活性酸素を自分の体内に生産し、自分で自分の体を酸化させ、さらにいやなことで頭をいっぱいにして不幸の想像の中に漂っていても何もいいことはない。
だからもう相手にするな、考えるな。いや考える時間もエネルギーももったいない。
おお、おれは20代前半にこのような宇宙の真理ともいえることに気づいていたのだ・・・。
しかししかし・・・
そんな「宇宙の真理」に気づいたところで今に至るまで、「イヤな奴」は姿を変え形を変えいつも自分の周りにはいたし、いつも悩みの種でもあった。
20代の時に気づいたつもりになっていた宇宙の真理も、「感情のコントロール」と同じでこれ自体間違ってるとは思わないが残念ながら「机上の空論」だと今では確信している。
人の感情なんてそんなに言葉通りに割り切れるものではない。
考えても無駄だからイヤな奴の言動はもう考えるのはやめよう・・・と言ったところで、現にそいつは存在し、それが会社だったら毎日顔を合わせるし、上司かなんかだったら顔を見るだけでなく理不尽な言いがかりをつけられたり理不尽な責任転嫁をされたり理不尽な評価をされたりもするのだ。
考えるな、気にするなと言う方がどだい無理な話だ。
そんなことができるならメンタルで悩む人などとっくにいなくなってる。
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