社長の一番長い日(ちょっと長いのでPC閲覧推奨)

会社日記

もう2年くらい経つだろうか、会長(前の社長)が退職した。M社長、としておこう。
送別会も花束も「お疲れ様でした!」のみんなの拍手もなく、ひっそりと去って行った。
何度も触れてきたが、この人はかなりのモンスターでおれもだいぶ理不尽な目にあっては来たが、
一方でいろいろなスキルは相当鍛えられたという気持ちも、一応ある。
ほぼ一代で業界No.1の専門紙の会社に成長させ、創業者並みの仕事をしてきた人間の会社人生の結末としてはあまりにも寂しい最後の日だった。送別会くらいやるのだろうと思っていた。おれは普段人前で話すのは大嫌いだがもしその時スピーチでも頼まれたらやってもいいかな、とも思っていたがそれも無かった。社長の退職で送別会無しというのも冷たい話だが、もしかしたら本人がそういうのを嫌がったのかも知れない。

Mさんはもともと大新聞の記者志望だったがそういう大手は受からず、何の縁か業界新聞に入社した。入った当初は5人くらいの弱小新聞で、「こんな会社、すぐに辞めよう」と思っていたらしい。しかし自分が入社してわずか一週間後、編集長が先に辞めてしまったという。その時残った人たちの間でどういうやりとりがあったのか知らないが、なぜかMさんが「編集長」になってしまった。
辞めようと思っていたのに編集長に抜擢。そこは本人なりに責任を感じたのだろう、とりあえず腰を据えて働くことにしたそうだ。
当時から会社には「教える」という文化は無かったようで、自費でエディタースクールにも行ったらしい。

頑張って広告もたくさん入るようになり、新聞の売り上げは伸びて行ったが給料はいっこうに増えなかったらしいが、その原因はその会社の構造にあった。当時の社長(もともとの社長)は会社を3つ経営していて、新聞の売り上げを赤字だった別の雑誌の会社の赤字補填に流していたそうだ。
これではいつまでたっても給料は増えない。そこでこのもともとの社長に退陣を願い、自分が社長になったというわけだ。その時に関連2社も切り離し、法人化したのだと言っていた。

M社長はなぜかビジネスの感だけは優れていたようで、いろいろなビジネスを当ててきた。当時、米国の展示会を見に行き感動して、
「この展示会を見に行くツアーをやろう!」
と言い出し、自分の新聞で告知するとあっという間に50人くらい集まったそうだ。そして次には
「この展示会を日本でもやろう!」
と言い出し、当時の晴海見本市会場(東京ビッグサイトの前身)で展示会を始めると、業界からは「画期的だ!」と称賛され、あっという間に出展社が集まったという。まだ「展示会」というものが日本で始まったばかりの時代だった。何のノウハウもなく始めた展示会で、一回目は出展社は集まったが来場者が全然来なかったという。それもそのはずで、開催告知というものを全くやってなかったらしい。忘れていたのではなく、そういうことが必要なんだということを知らなかったようだ。

社長になった時に最初に考えたのは「借金をしない」ということだった。「無借金経営」とかいうカッコいいものではなく、「いつでも解散できるように」という思いからだったと聞いた。やがて社員も20数名になり、媒体も3つになり、展示会も増えていった。
当然これらを維持拡大していくというのは相当のストレスがあったのだろう。社員は一人ひとり皆感情の生き物だ。社員をコントロールするのはビジネスとは別のスキルがいる。
事業が上手く行ってるうちはいいが、何年か経営していれば当然波が出てくる。順調に拡大していた展示会事業にも伸び悩みが出てきた。
M社長には若いころから「現状維持」とか「下方修正」などという概念はなく、「事業は常に拡大していかなければならない」という強い強迫観念があったのだろう。新聞社なのに展示会の出展社誘致の営業に全社員を投入し、毎日のように朝夕(夜?)の2回、「鬼滅の刃」のラスボス、鬼舞辻無惨も顔負けのパワハラ会議をやっていたという。そのおかげで社員もどんどん辞めていった。なので毎週のように求人誌に広告を出していた。おれが入社する1-2年前が一番激しかったと当時の先輩からよく聞かされた。

おれの入社当時も確かに離職率は激しかった。毎月とは言わないが、かなり短いサイクルで誰かが辞め、誰かが入ってくる。
今思えば、おれが入社した時に会社にいた人は3年後にはほぼ誰もいなかった。もちろん自分も退職を考えなかったわけではないが、今ほど転職が当たり前の時代ではなかったし、偶然にも「もう限界!」と思えるタイミングで部署異動があったり自分の周りの環境が変わったりでいつも機会を逃していた。
入社当時、離職率が相当高いのは感じていたが、おれは承認欲求が服を着て歩いているような状態だったので、とにかくM社長に認められたい、デキる奴だと思われたいとの一心だった。幸い入社したばかりにもかかわらず、私の記事は「うん、なかなかいいよ」と言ってもらえる頻度が多かったのでメンタルも報われていたのだろう。

M社長は使えないと判断した社員に対しては容赦なかった。強力なパワハラ会議で会社にいられなくなるまで追い詰めていった。「社員を育てる」なんていう考えは皆無で、「使えなければ取り換える」を徹底していた。よくM社長は言った。
「ここはエディタースクールではない」
社員を育てるなんて余裕は無い、使えなければいらない。
良い悪いは別にして、その姿勢はブレなかった。

なんで自分はこの会社に残れたのだろうと考えると、承認欲求が適度に満たされていたのと、自分だけなぜかもう限界と思った時にタイミングよく部署異動があったりしたが、自分の「怒り」を持続できない性格というのも大きかったと思う。おれだって感情の生き物なので「こいつ絶対許せない!このことは一生忘れない!絶対だ!」と思うくらい怒りがこみ上げることは多々あった。しかし数日するとその怒りがどんどんレベルダウンしてしまうのだ。
さらにもう一つの要因として、おれはおそらく唯一M社長に冗談で絡むことができた。他愛もない無駄話ができたのだ。それは後にも先にもおれ一人だったと思う。

M社長との関係は良好な時期と険悪な時期が周期的にやってきていた。その周期がある時期を境に険悪な状態のみになった。

毎週のパワハラ会議もほぼおれに対する個人攻撃になり、さすがにこんな状態ではやってられないと思った。今まで何年もM社長の理不尽には耐えてきたが、今回は無理だと思った。そんな矢先、他の会社から「うちに来ないか」と話があった。
冬前にその移籍先の社長と会い、その会社の社員たちとも会い、「じゃあ仕事の区切りのいいところで来年3月から」ということで転職の話がまとまった。
M社長は当然水面下でのおれのそんな状況を知る由もなく、おれとの関係はギスギスしたまま年を越した。
新年が始まり、退職届を書き、それを机の引き出しに忍ばせていた。いつこれを出そうか…
そんな時、部下の女性が
「セミナープログラムのDMのことでM社長が文句言ってます」
とおれを呼びに来た。
おおそうか。よし、今だな。
おれは退職届をもって社長室に行った。
M社長はセミナープログラムの校正原稿を見ながら
「なんでこういう順番なんだ!頭、大丈夫か?」
相変わらず失礼な男だ。
「日程で分けていった方が見るほうは分かりやすいと思ったからですよ。じゃあそれは直します。それからこれを・・・」
とおれは隠し持っていた退職届を差し出した。
M社長は一瞬止まったように見えたが
「そうか、分った。それでいつまでって書いてあるんだ?」
「一応この展示会が終わるまでにしてあります」
「わかった。それが大人の責任ってやつだからな」

意外にすんなりコトが済んだ。
おれは移籍先の社長に電話した。
「今退職届出しました」
「こっちは受け入れの準備できてるから。ただ今後そっちの会社と君との間でややこしいことが起こらないように近いうちにうちの先生(顧問弁護士?)に会わせるよ。そこで契約の話もしよう」

これで本当にこの会社ともお別れだな。
そんなことを考えていた矢先、状況が急変した。
「M社長がもう一度話をしたいと言ってるので時間を取ってほしい」
とM社長の側近の女が言ってきたのだ。
このM社長、辞めると言った社員を引き留めたことなど今まで一度も無かったのでこれは想定外だった。
「今さら話すことなどないから断って」とおれは伝えた。

その数日後、突然直接社長室に呼ばれた。
そしてそれまでの険悪さを封印したM社長が柔和な声で言った。

「ちょっとさ、おれもどうかしていたし、もう一回ちゃんと話そう」

それから実に2週間にわたり毎日社長室に呼ばれ、説得工作が始まった。
一方的に今後の会社の在り方だの、事業の進め方などを語っている。
「社長、ぼくは3月でいなくなる身だからそういうことをぼくに話しても・・・」
「いや、君は絶対に必要な人材なんだよ」
ならこれまでの仕打ちは何だったんだ。
「いや、もう次の会社でぼくの受け入れ態勢も作ってもらってるので無理ですよ」
「昨年のおれは新規事業の立ち上げやらでどうかしていたんだ。言ってみれば異常事態だったようなものだ。君も異常事態の中での判断だろ?」
「いや、半年かけて考えた上での判断です」
「なら半年かけて考え直してくれ」
訳の分からないことを言い出した。そしてついには
「おれが悪かった。謝るから考え直してくれ」

この社長が人に対して謝るなんて・・・!

結局2週間にわたる説得の結果、最後に放った「おれが悪かった」の思わぬひと言でついに陥落し、会社に残ることになった。しかしそのわずか3年後に「君はもういらない」と言われるとは、想像もしていなかったがこの話は別の機会に。
おれは結果的に同じフロアのグループ会社に移籍した。おれの人生も大きく変わったと思うがM社長のそれからの会社人生も、どうひいきめに見ても楽しそうなものではなかったように思う。
いろいろな企画のアイデアにも鋭さが無くなった。同じフロアなので毎日顔は合うのにM社長はおれと一言も会話を交わさなかった。おれにしてみれば「いらない」と追い出された立場だが、性格上そんな恨みを持続できるはずもなく、とっくにもうどうでもよくなっていたのだが、M社長はあからさまにおれを無視し続けていた。それは彼の退職の日もブレなかった。
何十年もかけて自分がここまで大きくした会社を、誰の見送りもなく去って行った時の社長の気持ちとはどういうものだったろう。

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