いびきを止めろ③

アンチエイジング

「50万円ですか。ちょっと全くの想定外だったので驚きましたが、さすがにそれは無理ですね。検討の余地すらありませんよ」
「そうですか」
女は冷静だった。それは想定内だったのだろう。そしておもむろに
「実はモニター制度というのもありまして、施術の前後をお写真を撮らせていただいて、広報資料に使用させていただければ特別料金でできますよ。もちろん顔や名前は出ません」
特別料金といったって半額になるわけでもないだろう。せいぜい50万が40万ってとこだろうか。
女はおれの顔色を確かめるようにもう一つの価格表を出してきた。それはそれぞれのコースががいきなり20万円ずつ安くなっていた。
6回コースは50万円⇒30万円だ。3回コースなら19万8,000円。
「これならどうですか?」
「いきなり結構安くなるんですね。でも30万円といったらもう家族会議が必要ですね」
「もし心配であれば3回コースから始めてみるのもいいかと思いますが、それで効果が出て継続したいとなるとまた3回コースでいかなければならないので、同じ6回でも40万円かかってしまうのですよ」
「じゃあ初めから6回コースを申し込んだほうが10万円も安いんですね」
「そういうことです」
10万円といったら、2年前に中古で買った高級ギターが11万円くらいだった。
最初に50万という明らかにひるむ金額を提示し、そこから大幅値引き。さらに3回の廉価コースよりも結局10万もお得ですよというこの論法。さまざまなインチキ商法で使われる常套手段なんだろうが、瞬間的に感覚がマヒするのか、不思議なもので30万という金額が結構身近な金額に思えてくる。頭の中でゼロの数が混乱してくるのだ。
「ローンでの支払いも可能ですよ」
女は畳みかけてきた。
一瞬ふらついてはみたものの、おれはすぐに正気を取り戻した。
「まあ金額が金額ですから、今結論は出せませんね。家族会議も必要です」
すると女は
「えー」
と驚きの声を上げた。
「今決めないんですか?」
そっちのほうが驚きだ。この女、今決めろと迫ってきた。これって英会話教材とか偽物絵画の販売と同じじゃないか。
「そりゃそうでしょ。30万円の買い物を即決なんか普通しないでしょ。それともこれは今日限りのオファーなんですか?」
「ちょっとそこは上長に確認を取らないと・・・」
上長ってさっきの若い院長だろ。
「ちょっと確認してきます」
と言って女は席を外し、そしてすぐに戻ってきた。
「今週いっぱいならいいそうです」
「じゃあちょっと考えてみますね」
もうこの時点ではやる気なんかとっくになくなっていた。
「家族会議では何を話し合うんですか?」
変なこと聞くなぁ。
「もちろんこの金額を出すかどうかですよ」
「今ここで奥さんに電話してみてください」
なんてこと言うんだこの女は!
「いや、今電話したらもう話は終わっちゃいますよ。即却下になるのは目に見えてますよ」
「そうですか・・・では今週末にご連絡お待ちしてます」
女は明らかに不完全燃焼の顔をしてた。
ビルからでたおれは歩きながら考えた。それはこの営業手法についてだ。狭い空間で情報を制限し、お得感を演出して高額商品のハードルを取り払う技術。一種の洗脳といってもいい。これはおそらく確立されたひとつの営業テクニックなんだろう。エステなんかではフルに活用されてるんじゃないだろうか。
冷たい夜風の中を歩いていくとなおさら頭の中がクリアになっていく。
まがりなりにもここは内科・皮膚科を標榜した「クリニック」なのだ。クリニックが高額な施術を、しかも全然緊急性のないものに英会話教材販売のようなかく乱戦法を使って即決を迫るなんて、どう考えてもおかしい。
もし「30万やるからいびきを治してこい。方法は問わない」と言われてポンと30万円渡されたなら、4万円で切って2週間を耐え、残った20万円で高級ギターが欲しい。うん、やっぱりここはないな。
実はここに来る前に、銀座の超有名なレザーで「軟口蓋形成術(のどちんこを切るやつ)」を行っている耳鼻咽喉科クリニックの診察予約を入れていたのだ。そこは人気があって、予約が取れたのは1か月ほど先だった。

つづく⇒いびきを止めろ④

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