転職した初日は1991年3月1日。
これは今でも鮮明に覚えている。
就業時間は9時半からだった。
それまでの会社では8時半までに両国まで行かなければならなかったので、その部分はありがたかった。
転職初日というのはかなり緊張するものだ。
緊張しすぎてそれだけで疲れてしまった。
「じゃあ、ちょうど今から編集会議やるから来て」
と社長が言った。
おお、「編集会議」か。
いかにも業界っぽい響きじゃないか。
その編集会議のメンバーはおれ以外には社長、編集次長、4つ年下の女の3人だけだった。
会議の内容なんかもちろんほとんど理解できなかった。
当時のその会社は「人に教える」とか「人を育てる」「指導する」という意識が皆無だった。
会議は終わったものの、おれは一人完全に放置されてしまった。
みんなおれの存在など忘れてしまったかのように自分の仕事に入っていった。
「あの・・・ボクは何をすればいいでしょうか」
とおそるおそる聞くと
「うーん、そーだなー、とりあえずバックナンバーでも読んでて」
と言われ、何もやることもなくぼーっとバックナンバーを眺めて午前中はそのまま放置された。
おれのすぐ斜め後ろが社長の席である。
背中越しに監視されているようで全く落ち着かない。
こんなことで役立たずと思われてはたまらない。
お昼になった。
編集次長がおれと同じ編集部の女を誘って昼食に行くことになった。
この女は入社3年目くらいのよく肥えた女で、不敵な面構えをしていた。
期待していたイメージとして、ばりっとスーツを着こなしたスレンダーな美人編集者を期待していたのだが、現実は必ずそういう期待を裏切る。
当然先輩だが、歳はおれよりも3つか4つ下だった。
この女、開口一番
「とんでもない会社に入っちゃったよねぇ。早く次ぎ探した方がいいよ」
転職初日の人間に向かってなんていうことを言うんだこの女は。
「給料は安いし休みはないし、夜は遅いし、友達失くすからね」
「夏休みってどれくらいあるんですか」
「そんなもんないよ。ああ、去年は1日くらいあったかな」
いやな女だと思った。
とはいっても一応先輩だ。
今から敵に回すわけにも行かない。
午後になると、おれは広告の「版下」という、いわば原稿の「校正」につかいに出された。
「版下」「校正」ともに初めて聞く言葉だったし、版下の現物も初めて見た。
「これね、●●社の宣伝部の●●という人がいるから見せに行って」と編集次長が言った。
「見せるだけでいいんですか」
「何か聞かれたらとりあえず聞いといて」
おれは言われるがままにその版下をもってクライアントの会社に出向いた。
そこではいかにも“業界人”気取りの男が出てきて、版下にかぶせてあるトレーシングペーパーに
赤ペンでどんどん何かを書き込み始めた。
「このモデルの表情ねぇ、ここちょっと暗いんだよ。シアンとマゼンダをさあ・・・」
と専門用語をかましてきた。
「それからここもさ、これ取っておいてね、そっちで出来るでしょ。これ、天地あってる?なんか短くない?」
シアン?マゼンダ?天地?
何語を話しているんだこの男は。
わけのわからぬまま、とりあえずこの男のいったことをメモしておれは会社に戻った。
すると紙面の校正紙が出てきていた。
「校正やってみて」
と先輩の女が言った。要は間違い探しだ。
「新製品の欄があるでしょ。そこに出ている電話番号確認しておいて」
「はい・・・どうやってやるんですか」
「そこに電話すればいいでしょ」
なるほど。
おれは素直に電話をし始めた。
しかしそこに出ている電話はほとんどが代表電話だった。
受付嬢が出ると大抵広報に回された。
「はあ?なんという新聞に載るんですかぁ?それはどういうところに出回る新聞ですか?うちのどの部署の誰に取材したんですか?お宅様はどういう会社ですか?それ、原稿見せてください」
と、話がぐちゃぐちゃになってしまう。
何も知らないおれに対処できるわけもなく、ひとしきり押し問答の末、相手の不信感たっぷりの質問に対応できずに電話をバトンタッチすると、女は「チッ」とあきれた顔をして電話を代わった。
「●●部の●●さんにこの間取材させていただいた分です。原稿は確認してもらっています。電話番号のチェックだけですので。はい、どーもー」
ものの一分で終わった。最初からそうすればいいじゃないか。
おれのこの女に対する不信感がまたひとつ積みあがった。
6時になった。前の会社であれば、もう帰る準備をしている時間だが、他の編集部も含め全くそんな雰囲気ではない。みんないつになったら帰るんだろう。
7時になった。
まだ誰も帰らない。
すると別の編集部でやはり最近入社したらしい人が出前のメニューをおれのところに持ってきて「何にしますか?」と聞いてきた。
一瞬意味が分からなかったがとにかく何か注文しなくちゃならないんだろう。
「えっと、ああ、それじゃ、えっと・・・五目チャーハンで・・・」
やがて出前が来て、みんな当たり前のようにそれを食べて再び仕事に戻った。
確か求人募集の広告には就業時間が9:30-17:30となってたはずだ。
9時になった。
「んじゃ、おれ帰るから後ヨロシク」と言って社長が帰っていった。
おれはいつまでいればいいのだろう。
この場合、直属の上司である編集次長が声をかけてくれるのだろうか。
初日から「もう帰っていいですか」なんてとても言えない。
10時になった。
他の編集部ではパラパラと帰る人が出てきた。
しかしおれには一向に声がかからない。
11時になった。
すると編集次長は
「○○くん、今日は初日なんだからさ、もう帰った方がいいよ」
と言った。
もうって、今11時だぞ。
当時、おれは八王子の実家に住んでいたので、その日家に着いたのは12時を回っていた。
おれはとんでもないところに来てしまったのだろうか。
己の選択が大きな間違いだったのではと後悔の念が押し寄せた瞬間だった。
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