コラム

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コラム

戦場ジャーナリストの言葉

「志葉玲」というジャーナリスト。この前の都知事選の時にたまたまツイッターで目にして、その記事に驚きすぐにリツイートしたのだが、あまりに素晴らしい文章なので保存しておいた。都知事選は残念な結果に終わってしまったが、何度読んでも「そのとおり!」...
スピリチュアル

『降参のススメ』ー阿部敏郎&雲黒斎

ここ数年で読んだ本の中でしばらく第1位を守り続けていたのが『夢をかなえるゾウ』(水野敬也・著)だったが、ここにきてその順位を入れ替えなければならない本が出てきた。『降参のススメ』(阿部俊郎・雲黒斉)だ。阿部俊郎と雲黒斉のトークライブを書き起こしたものだが、このライブのDVDも出ていて、ちなみに私はDVDのほうはヤフオクで1000円でゲットした。
コラム

サンダーバード

以前、ツイッターで「自衛隊は災害時に活躍する国際救助隊に名称を改めればいい。どこの国とも交戦しないのだから銃も戦車も戦闘機もいらなくなり、代わりに救助活動のための大量輸送機だの掘削機だの最新鋭の機械を導入するのだ。世界の喝さいを浴びるぞ」と...
本棚

一家に一冊!『原発報道』-東京新聞

名も『原発報道』。1890円もする本だが私は迷わず即買した。 ホームページの紹介文では次のように書かれている。『 「東京新聞の原発記事が読みたい!」という全国からの声に応えました。「スクープと調査報道」、「折々の報道と連載『レベル7』『福島作業員日誌』」の2部で構成。福島第一原発事故の直接原因となった全交流電源喪失への対策見送り、経産省資源エネルギー庁による誹謗中傷的な報道チェックなど、
コラム

駅立ち

私の使っている田舎駅では選挙に関係なく、毎月必ず誰かしら「駅立ち」をやっている。これが迷惑この上ない。特に今、駅の改装工事をしていて改札前が狭くなっているのにそんなことまるでお構いなしにど真ん中に立って自分の名前を連呼している。こんな空気の読めないヤツに政治なんか任せられるか。
コラム

圏央道とブータン王国

「圏央道」というものを初めて通ってみた。 実家が八王子にあるので、外環で練馬に出てそのまま関越自動車道に乗り鶴ヶ島から圏央道で高尾山へというルートだ。そもそも圏央道というものがよく分からず、おそらく東北自動車道と関越自動車道と中央道と東名を繋げるのだろうぐらいの認識で、それがいつできるのか、どんなものができるのかなど何も知らなかった。
本棚

これはもはやSF超大作『1Q84』-村上春樹

毎日の通勤電車の中で読み続け、今日の朝読み終わった。これは21世紀の「純愛SFロマンス」である。ストーリー展開も見事だが、エンディングも日本人らしくなくていい。日本人の書く小説や脚本だと大抵最後はジメッとした終わり方が多く、大抵後味が悪いものが多い。アホな評論家はそれを「ワビ」だの「サビ」だのと言い訳するのだろうが、『1Q84』は見事な着地をしてくれた。
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【家族旅行】発熱39.6度の下田…後編

ホテルは和室だったが、なんと敷布団がテンピュール(類似品ではない)だった。これは感動的な寝心地であった。温泉に入り、テンピュールで熟睡・・・明日は本当に全快だ!と思っていた矢先、またメールが来た。会社の奴からだった。突然緊急ミーティングがあり、どうやらおれが悪者になっているという。何だそれ?
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【家族旅行】発熱39.6度の下田…中編

前の晩は「なんとしても治さねば・・・」という焦りから、かえって眠れず、おそらく眠りについたのは深夜の2時過ぎだったと思う。それから少し夢を見て、朝5時半に起きた。なんとか熱は下がっていたが、カラダがふらつく。何しろ39度を超える熱が出ていたのだ、そう簡単に全快するわけが無い。しかし妻には「全然平気」とうそをつき、6時半に出発した。
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【家族旅行】発熱39.6度の下田…前編

確かに疲労は溜まっていた。それは肉体的疲労ばかりでなく、精神的なストレスのボルテージも相当高まっていた。「おれの人生はこのままでいいのだろうか」「最優先事項は家族を守ること。当たり前の話だ」「しかしそれではおれの人生は結局我慢で終わってしまうのか」「世のほとんどのおとーさんたちは皆そうしているのだよ」「それではあまりにも寂しい人生じゃないか」そんな自問自答を最近ずっと繰り返していた。
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大震災の夜

テレビや映画ではなくリアルで起きた東日本大震災。東京消防庁に勤務する姉は24時間交代シフトで三角トンガリ目になっているようだ。隣の席の男性職員は遺体の回収作業のため現地に行ってるという。津波で町が壊滅状態になり、電気、ガス、水道が止まり、食...
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絆(きずな) ※ちょっと長いのでPC閲覧推奨

私の姉は27歳の時に結婚した。相手は36歳の岩手県出身の起業家だった。 魚介類の輸入を手がけていたのだと思うが、自信に溢れた人だった。 姉は短大卒業後、教授の勧めでその大学に残り、管理栄養士となりしばらく大学で働いていたが、83年に開催され...
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